––まず自己紹介からお願いします。
橋本清です。ブルーノプロデュースという個人ユニットの主宰と、批評家・ドラマトゥルクの山﨑健太とやっているy/nというユニットで、演出や俳優の立場から舞台芸術に関わっています。
––「円盤に乗る派」への印象をお伺いしたいと思っています。橋本さんは『仮想的な失調』が初めての出演ですか?
そうですね。出演は『仮想的な失調』が初めてです。観客としては前身の「sons wo:」から何作か観てきていて、「円盤に乗る派」になってからの公演もスケジュールが合えばできるだけ観劇するようにしています。印象で言えば、「sons wo:」から「円盤に乗る派」になってからは特に、公演毎に上演作品を発表するだけでなく、関連企画として演劇内外から様々なゲストを呼んでシンポジウムを開いたり、「円盤に乗る派」独自の生活状態(ライフスタイル)誌「STONE / ストーン」を刊行したり、「肉が柔らかくなるまで未来について話す」と題したイベントでは、トークの最中にお肉を調理して、それが柔らかくなったらお客さんと一緒に食べたり(笑)、そもそもの「円盤に乗る派」という名前からしてもそうなんですけど、こちら側に対してオープンでありながらもどこか怪しげな、得体の知れなさと微笑ましさが奇妙なバランスで入り混じっているのがユニークだなと思います。あとは、「劇団」ではなく「プロジェクト」と名乗っていたり、公演に関わるメンバーを「人々」とクレジットしたり、全体の印象としては、「円盤に乗る派」という一つのフラットな地平に集う一人一人がそれぞれ個を保ったまま集団としてもいられる場所、というのが感じられて、とてもいいなと思っています。
実際に関わってみて、今回は演出に蜂巣さんもいるので、まさしくカゲヤマさんだけの稽古場を経験したことでの感想ではないのですが、すごく風通しのいい現場だと思います。稽古は基本的に、一つのシーンをやった後、そのシーンに対するフィードバックをみんなでおこなう、という流れで進んでいくのですが、自分の現場や他の客演先だと同じシーンを繰り返し稽古してブラッシュアップすることが多く、それと比べて「円盤に乗る派」では、フィードバックの方にものすごく時間をかけます。そこでは演出を含めた俳優一人一人の意見や感想が可能な限り尊重されていて、稽古を通して常に自分や周囲に対し肯定感を持ちながら演技に取り組むことができます。
––今日の稽古のフィードバックの様子を拝見して確かに驚きました。
それぞれ役職だったり立場や関係が異なっているので、完全に平等ではないんですけど、その差異を互いがある程度認識した上で信頼を持ちながら思ったことは発言できている感じがあります。たとえば、フィードバックの時間に俳優同士で「今の演技はこういう風に見えた」と言い合ったりもするのですが、こういう類のコメントというのは一歩間違えれば危険な方向に向かってしまうと思うんです。でも、この座組では、2年前の初演から培ってきた関係性もあって、演出からのディレクションに加え、他の俳優から見てどういう風に演技で「場」が立ち上がっているのか、互いの意見や感想を積極的に受け入れて、––実際の演技プランに採用するかはまた別の話なのですが、それぞれの持つ多種多様な「声」が、ポジティブな方向性で、各々の演技のあり方の検証の際に、非常に有意義な形で活かされているんじゃないかと個人的には感じています。
––演出が二人いるということはどう見えていますか?
いいことだと思います。当たり前ですが、カゲヤマさんと蜂巣さんはこだわる部分は全然違っていて、カゲヤマさんはテキストを書いた人ということもあり、そうではない立場からの蜂巣さんの作品についてのフィードバックは、演じる上でとても参考になります。ただ、時折、––初演時は特にそうでしたが、カゲヤマさんと蜂巣さんの考えがバッティングすることがあって。そういう時は演者として、二人の演出のビジョンやイメージの両立の実現に挑戦してみたり、その中でやり甲斐や難しさを見つけたり、そもそもの両立のできなさを感じてしまったりなど、「板挟み」と言うとちょっと語弊があるんですけど、二人の意見がぶつかったときには、自分自身の身体が引き裂かれるような「痛み」を味わうことがあります。その「痛み」自体は、––これもなかなか言い方が難しいのですが、時には必要なものだと個人的には思っていて。なぜなら、二人の考えが衝突するところから新たに対話が始まり、これまで言語化されてこなかった作品の「本質」に関するコメントが、クリエイションの場に投げ込まれることが起きるからです。その結果、より深くというか、今までとはまた違った視点から作品を捉え直すことができるようになって。とはいえ、現実的な稽古時間や演技での両立のできなさ、みたいなところから、演出の二人が持つ全てのイメージやアイデアを取り込めることはできなかったりするのですが、そういうときは、カゲヤマさんや蜂巣さんはもちろんのこと、「表出」を担う俳優の立場からも苦い決断や判断をせざるを得ないことがあります。そして、そこでもある種の「痛み」が生じてくるのですが、同時に「演出が二人いること」の醍醐味というか「旨味」も強烈に感じて、不思議な昂揚感に包まれることもあります。
ちなみに、僕は蜂巣さんがディレクションに携わる現場はこの『仮想的な失調』が初めてで。2年前の『仮想的な失調』をやっている時に、自分の興味と蜂巣さんの興味が結構近いことがわかって驚いたことがあります。というのも、これまで蜂巣さんが演出を担当していたハチス企画やグループ・野原での作品を何作か観劇したことがあって、観客としては面白く観ていたんですけど、俳優としては蜂巣さんとどう関わればいいか実は現場に入るまで正直不安なところがあって。「蜂巣さんが言ってることが難しくて理解できなかったらどうしよう」みたいなレベルの話なんですけど。だけど実際にご一緒してみたら「めちゃくちゃ言ってることがわかる!」って頷くことの連続で(笑)。カゲヤマさんが「内側」というか、上演にあたっての土台となる「態度」のようなもの、たとえば俳優・テキスト・観客の三者の関係やそのあり方から、登場人物の存在や身体、発語についてアプローチしていくのだとしたら、蜂巣さんはもっと「外側」から、たとえば登場人物の立ち位置を通した人間関係やその権力勾配、「物語」としてのドラマのうねりと、テキストに書かれた「言葉」の機能や役割のようなものが、全体の流れのなかでどう観客に響いている/くるのかに着目されているなと思って。自分が演出する時は割と蜂巣さん寄りの思考に近いことをしているなと感じました。もちろんそこでの蜂巣さんの作業は、カゲヤマさんの書いた「テキスト」という「中身」を出発点にしているし、カゲヤマさんも「内側」や「態度」といったものだけでなく、たとえば舞台機構や美術や小道具といった外的なモノとの関わりを通して、登場人物とそれを演じる俳優の存在について思考したりもしているので、単純に「内/外」の対立項では分けられない話なのですが。ともあれ、演出に複数の視点があるのは自分が演技プランを組み立てていく上で非常にいい影響がありますし、何よりそれは観客の様々な「読み」の可能性を引き出すことにもつながっていくと思うので、今後もできるだけカゲヤマさんと蜂巣さんの二人にしっかりと「振り回され」ながらクリエイションを続けていきたいです。
––本番が近づいてきていますが、今の心境をお伺いしても良いでしょうか?
僕は自分で「俳優」と名乗り出したのが大体5年くらい前で、そのきっかけが「小田尚稔の演劇」の『是でいいのだ』という作品に2016年ごろから出演し始めたことにあります。3.11の直後の東京を舞台にした作品なんですが、毎年3月に三鷹にあるSCOOLというインディぺンデント・スペースでこれまでに5回くらい再演を重ねていて、僕は毎回同じ役で参加しているんですけど。初演から数えて6年間程上演を繰り返していく中で、自分の演技を通して作品でできることがどんどん増えていく実感があって。それで、もっと演じることを続けていきたいと思い、俳優としての活動をスタートさせました。
今回の「円盤に乗る派」のクリエイションでは、再演ということもあり、『是でいいのだ』と同様、「できる」ことが増えている実感がありました。しかし、そのことがそのまま作品の良さに結びつかないことに気がついてしまい。というのも、何かが「できる」ようになったことで、失われてしまったものがいっぱい出てきてしまったんですね。それは「円盤に乗る派」の「本質」のようなものなのかもしれないし、『仮想的な失調』のテーマでもある「不安定な自己」や「複数のアイデンティティ」、「物語/自我の失調」など、いろんな点から語れると思うんですけど、いずれにせよ「できる」ことで全然うまくいかなくなってしまった(笑)。だから、今は本番に向けて、「上達した」ことで失われていったものがどういうものだったのかをきちんと把握して、それをどうやったらまた復活/現前させられるか、といったことを考えています。先日、東京芸術劇場のリハーサルルームで通し稽古をおこなったのですが、はじめての通しということもあり、その時点では初演のガワをなぞることに留まってしまって。なので、改めて、演じている瞬間瞬間の自分の状態や態度、そのとき自分の内側で駆動しているものがなんなのかをきちんと見つめ直し、もう一度、初演のコアやイメージを踏襲しながらも、「できる」ようになった身体に、再演用の新しい回路を組み立てていきたいなと思っています。
また、今回、東京芸術祭のプログラムということもあって、国内外含めていろんな人が観に来てくれることになるかと思うので、そこで何かの縁ができて、この作品がそう遠くない未来にまた再演されることを勝手に想像しながら稽古に臨んでいたりもします。そのときまた出演者としてオファーをもらえるかどうかは別の話なのですが、再演の稽古をしながら、どうやって再演の稽古をしていけば『仮想的な失調』がよりよい作品になるのか、というようなことも平行して考えるようにしていて。それは僕にとって、今作の持つポテンシャルと向き合う作業にもなっていて、そこにやり甲斐を感じたりもしていますね。
––今日の通しを見ながら、こうやってレパートリー作品は作られていくのかもしれないなと思っていました。
そうですね。この部分は変わらないまま存在していた方がいいんじゃないかとか、ここは変わってもいいんだな、みたいなことを思考するプロセスというのは、そのとき自分が生きている社会や世界を考えることともつながりますし、そのとき生きている社会や世界から作品が新たに価値づけされていくこともあるかと思います。
今回の再演でカゲヤマさんが特に大変そうにしているのは、上演する劇場が違うことによる修正です。劇場が違えば、たとえば壁とか床とか天井とか、そもそもの舞台機構が全然変わってきて、間口や奥行きのサイズも異なるので、モノと人との配置や、見え方のデザインを再考しなきゃいけない。そういう点が再演にあたって一番影響が大きい部分じゃないかと感じています。いわゆる「物語」とか「ドラマ」の要素をじっと集中して観るような、そういった作品の場合は、劇場の機構がある程度異なっていても、その「中で」上演されるお芝居は一定の強度を保ったまま観客へ届けられると思うんです。でも、「円盤に乗る派」のような作品の場合には、「外側」からの影響も含めて作品の「中身」というか、フィクションのあり方を検討していくことになるので、それを繊細に構築し直さなければならない。今回のシアターウエストでの上演を通して今作がどう立ち上がってくるのか、今から不安でもあり非常に楽しみでもあります。
みなさんにも是非この機会に、2024年に生まれ変わった『仮想的な失調』を観届けてもらえたらうれしいです。
2024年9月8日(日)
インタビュー・編集:中條玲
撮影:濱田晋