「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」を観た日の日記(的なエッセイ)

『「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」』を観た日の日記(的なエッセイ)

複数の執筆者の方に、『「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」』を観た日の日記(的なエッセイ)をご寄稿いただきました。

批評やレビューではなく、あくまで日記という体をとったエッセイです。その人の日常と分かちがたく結びついた個人的な体験である「観劇」という行為を、個人的な言葉で綴っていただきました。

また本公演では観客の方からも広く日記を募集しており、集まった日記はこちらで紹介しております。とても多くの方にお寄せいただきましたので、どうぞ併せてご覧ください。

2026年3月13日(金) 友田とんさん(作家・編集者)

朝、起きてコーヒーを入れ、朝食の支度をして妻と朝食。目玉焼きに私はトーストで妻はご飯。りんご、ジャム数種。何がきっかけであったか、食後にそのまま食卓に居座って、来月あるトークイベントのことを考える。そこでは制作の方法の話におそらくなる。ただ中身(コンテンツ)を書くのではなく、本やその流通という容れ物もつくってきたこと。中身と容れ物の両方をつくるというよりも、その境目が溶けていること。中身をつくっているはずが容れ物をつくっていたり、つくった中身が容れ物を変形してしまうこと。別にひとりですべてをやりたいと思ってやってきたわけではない。一筋縄ではいかず、出来した状況を踏まえて、一つずつステップを踏んできたらそうなっていた。簡単に中身と容れ物を分けることができない。

今日は演劇を見にいく。そのことを普段書かない日記として書くということを昨晩就寝するあたりから意識しているからか、常に自分の目というカメラが回っているような感覚がある。期せずして中身と容れ物のことを考えたが、ではこれから見に行く演劇はどこまでが演劇の中身でどこからが容れ物なのか。いつからいつまでが観劇体験なのか。そう考えると、見る前からこうして演劇について考えているのは、すでに劇場が漏れ出してきているな、などと事務所への道を歩きながら考えていた。

事務所でメールを返したり、書きかけのエッセイの原稿をプリントしたりしているうちに、とっくに出発予定の時刻になっていて急いで事務所を出る。

事務所から駅へと向かう静かな住宅街のとある民家のまえにひと月ほど前から常時見張りの警察官が立つようになったのだが、今日通りかかったら仮設のポリスボックスが設置されていた。政府要人などになると家の前に置かれる電話ボックスのようなあれだ。長期戦になるという判断なのだろう。

駅前の商店街までたどり着くと、こちらもなんだかいつもと様子が違う。人が多く、しかも動きがとどこおっている感じがする。地元の人ではなく、どの人もよそから用事で来たような人たちに見える。普段は閑散としているロータリーもなぜか人が多い。ロータリーにちょうど入ってきたバスを待つ行列ができている。バスの時刻に合わせて、いつもこんなに人が待っているだろうか?などと考えながら改札にたどりつくと、東横線が停電で一部不通になっていて、そういうことか!と合点し、そして焦る。開演に間に合うだろうか。ホームに上がると結構な数の人が待っている。向かい側を下り電車が次々に通り過ぎていく。すべてが菊名行き。こちら側も急行電車が通過していく。急行が走っているということは、遅れながらも一応動いているということだ。そのまま待っていると、ほどなくして普通電車が来る。渋谷で井の頭線に乗り、吉祥寺駅に開演30分前に着く。なんとか間に合ってよかった。

吉祥寺シアターの場所を地図で確かめたのち、そばくらいなら食べられるだろうと富士そばに入り、急いでそばを啜る。「これもう受け取りに来たの?」「何番の人が受け取りに来たのかわかんないんすよね〜」と店員さん同士で話しており、見上げると新しく導入されたらしい頭上のディスプレイには、完成して呼び出したはずの番号がいつまでもずらりと表示されたままだった。開演5分前に劇場に到着する。8割がた席が埋まっていた。着席する前にトイレに行くべきであったかもしれないと気を揉んでいるうちに照明が落ち、演劇がはじまった。

演劇でも映画でも話についていけるだろうかと最初はいつも不安だ。話の展開を把握するのが苦手で、つい細部に気を取られているうちに、置いていかれてしまう。だが、本のように戻って確かめることはできない。『「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」』は、ワーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルデ』を変奏したものであるとは先にチラシを読んで知っていた。劇の冒頭でもそう言っていた。出てくる人の名前もトリスタンやイゾルデの名を少し冗長にしたような名前になっている、と冒頭で言っていた。念のため『トリスタンとイゾルデ』の話の筋をwikipediaで読んでから来た。頭に入れてきたというほどではないが、それがどう「対応」しているのだろうか?とまるでジグソーパズルのピースをはめようと試みる感じで頭がずっと動いている。

男性は魚屋さんの白い長靴みたいなのを履き、同じような材質の肩に掛かるユニフォームを着ていて、なぜか古代ローマの人たちを思い浮かべた。この国のようでこの国でなく、現代のようで現代でない。IT企業のごくありふれた職場のようであり、新型コロナウイルスが蔓延した社会とワクチン接種のことが語られている、ようでもあるのだけれど、しかしそれがよく知っている現実と、ぴったりはまったという感触が明確には得られぬままに、劇は前へと進んでいく。どこかでこのピースをぴったりはめたてしまいたい心が常時起動していて、現実や原案との相似形を見出そうとしている。このある意味での気持ち悪さ、満たされなさが持続する。ぴたりとはまると気持ちいいのだろうなという期待感がずっとあるからか、気持ち悪さが、不思議な心地よさにもなっている。

とそんなことを考えながらも、目は舞台上で動く人を追う。なんと言えばいいのか、拳を頭上に上げるにしても、動物の着ぐるみを着たような緩慢な動き、マンガ的と言えばいいのだろうか、それがくり返されて、おもしろい。そういえば、以前に「円盤に乗る派」の演劇を駒場で見たときにも、同じようなことを思ったかもしれない。その記憶に確証はないが、確証がないからこそ、前に見たものかもしれないという不思議な心地よさがしばらく持続する。デジャヴのように、見たという確信だけがあるのとは逆の感じ。こうした持続する気持ち悪さの心地よさとは対称的に、ゾンビになってしまった人が顔を真っ白に塗って出てきたり、(ジェネリックな)赤福を頬張って死ぬなどの唐突な展開は、脈略がなく、それゆえに意表を突かれて笑ってしまう。その場所で、陰謀論や政府との癒着の話が熱く語られて、やはりこれは2026年のこの国の話なのかとまた考えるうちに、劇が終わる。

見終えてから、戯曲(へのQRコードのついた)ポストカードを買い求め、外に出るとまだ明るい。なにしろまだ4時前だ。書店を見て回ってから、ドトールへと向かう。かつてこの辺で暮らしていた時の記憶が蘇る。この並びの一軒で人と待ち合わせて飲んだな、などと思い出すが、しかしそれもそんな気がするだけかもしれない。ドトールに入り、戯曲を見返しながら、感想を書いてみようと思ったら、ポケットにあるはずの戯曲のポストカードがない。しまった、どこかで落としてしまったみたいだ。30分ほど前に見たばかりの演劇のことがもう細かには思い出せないかもしれないと焦ったが、印象に残った事柄を書き出していくと、質感や考えをめぐらせたこと、唐突に笑ったことなどが次々と連続的に思い出されていくから不思議だ。唐突に起きたことも、こうして思い出されるということは、唐突さもまた持続しているということなのだろうか。

ドトールで見たり聞こえたりしたことをきっかけに思い出されることもある。糸をより合わせるようにして思い出していく。あれはなんだったんだろう、原案や現実とどう相似形をなしているのだろう。書き出してみて、ふたたび思考をしばし浮遊させる。いつかそのピースがカチッとはまることがあるのだろうか。それはまるで体内をさまよっていたウイルスが、やがてそのスパイクタンパク質によって人の細胞の受容器にはまるようなものだ。私も誰かに何かを伝えるウイルスに、あるいはそれを妨げるワクチンになったような気持ちになった。

日が暮れて外に出て新宿に出る。ごったがえした百貨店でホワイトデーの妻へのお返しを買い求め、電車に乗る。依然として電車は停電の関係で乱れている。事務所に立ち寄り、期限の迫った経理作業をする。帰宅して豚の生姜焼きをつくる。繰り返しつくっているうちに、調味料の量は憶えてしまった。憶えたレシピ通りに作るだけ。でもこれが結構楽しい。食事は芋焼酎のソーダ割りで。今日見たことを妻に話す。どれくらい伝わったかは心許ない。食後、疲れが溜まっていて歯を磨いて寝る。

友田とんのプロフィール画像

友田とん(作家・編集者)

1978年京都市生まれ。作家、編集者。ひとり出版社・代わりに読む人代表。博士(理学)。著書に『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ文庫NF)、『ナンセンスな問い』(H.A.B)、『先人は遅れてくる』(代わりに読む人)、『「手に負えない」を編みなおす』(柏書房)などがある。日常の出来事から数学的思考を立ち上げていく小説を試作しています。

2026年3月14日(土) 渋木すずさん(ウォッチャー)

朝起きると、夫が「子どもの様子が少しおかしい」と言ってきた。見てみると鼻水が出ている。体温は37.1℃、悩ましい数字だ。昨日は保育園でおやつを食べなかったらしい。食いしん坊がおやつを食べず、やや微熱で鼻水も出ているとなると、今日の託児は断念した方がいいだろう。子どもは夫に任せて私は円盤に乗る派の公演へ。託児利用ができなくなった旨を制作の方に連絡する。子どもが産まれてこういうことはもう日常になった。

電車に乗る。家から劇場まではおよそ1時間。移動の間にまったりとSNSを見られることが半ば癒しのようになっている。戦争のニュースが流れてくる。ここのところ寝る前までずっとニュースを追ってしまっていてうまく寝付けていない。昨日観た乗る派の上演では前列に座ったからか、俳優の圧がすごかった。脚本は事前に読んでいたが、まさに公演直前にこんな情勢になるなんて思いもしなかった。私は上演がこのような情勢の中で行われることを、少し暗い気持ちで受け止めていた。本来目指していた形とは違うメッセージを観客に届けることになるのではないか、それは俳優やスタッフの方々、演出家にとって好ましくないことなのではないか、と。

ふと、タイムラインに流れてきたポストが目に入る。寄付を呼びかけるポストだった。そのポストの「自分が贅沢をした分の中の少しの金額を寄付にも使う」「この土日の楽しみの分を少し分ける感じで寄付」という考えがとてもしっくりくる。何かを我慢したり生活を切り詰めて寄付をする考え方より、ちょっと気軽な気がした。思い立って早速ガザで家賃の支払いに困っている人に寄付をする。20ポンド。私は関係者枠で乗る派の公演を観られる。チケットを買った場合は一般で4000円だから、その分を寄付した。「ウォッチャー」という、俳優やスタッフとはまた別の役回りにいて、無償で観劇出来てしまうちょっとした居心地の悪さを、寄付に昇華してしまおう。これからも関係者枠やご招待の観劇の時には寄付をしようと決めて、戦争で沈んでいた気分が少し軽くなる。寄付をしたのは、昨日乗る派の公演を観てからずっと戦争について考えていたことと、このポストとの出会いのおかげだ。そう思えば、きっと今この劇が上演されることには意味がある。

今日は後方の座席で、舞台全体が見られるように座った。昨日より俳優の演技の圧が減り、見やすかった。美術が美しい。昨日近くの席で見たときは、吉祥寺シアターを敢えて狭く定義して使っているような印象があり、それも良いなと思っていたけど、後方で見るとしっかり舞台を広く使っている印象に変わった。俳優も今回のステージでは力がすこし抜けているようで、物語の筋がしっかり追える。

いくつかの感想をメンバーに伝え、観劇に満足して帰る。SNSを見る。タイムラインでは物流への影響が囁かれ始めている。急に戦争が身近になってきた。違う。ずっと近くにあったのに無視し続けてきたのは自分だ。いや、それも違う。選挙には行っていた。「ガザとは何か」も読んだ。平和と反戦を表明し、寄付も時々した。無視していたわけではない。でも何もかもが違う。なんなんだこれは、一体。

家に着く。ドアを開けると、子どもが笑いながら、よちよちと私の足元に駆け寄って抱きついて来た。子どもを抱きしめ返す。やわらかい頬にキスして、いつもより少し強めにぎゅっとする。子を寝かしつけた後に、昼に寄付した人の家賃が足りたか気になって見てみると、無事目標金額を達成したようだった。といっても、最後の一押しの寄付は、寄付を呼び掛けていた方々の中の一人がされたようで、金額も少なくはなかった。最後の最後で誰かが少し無理をしないと目標を達成できない。頭が下がる思いと、どうすれば良いのか分からない気持ちでいる。ガザで寄付を受けた方が「皆さんの優しさを決して忘れません」とお礼のメッセージをポストしていた。嬉しいけど、お礼なんて言わなくていい、早く戦争が終わって、全部忘れて過ごせるくらい平和になってほしい、と、自分勝手に思いながら眠りについた。

渋木すずのプロフィール画像

渋木すず(ウォッチャー)

1990年広島県生まれ。会社員。エッセイを書く。「ちょっとしたパーティー(@A_little_party)」という名前で餅つきや同人誌作り等々に勤しんでいる。演劇プロジェクト「円盤に乗る派」にウォッチャーとして参加中。
note:https://note.com/suzu_shibuki

2026年3月14日(土) 清原惟さん(映画監督・映像作家)

部屋にある観葉植物から、細長いツタのようなものが伸びていた。背の低い肉厚な葉っぱのなかから、一本だけすん、と長く出ていて不思議だ。花が咲くのかもしれない。

外へ出ると、日差しは暖かいけど、風が少し冷たい。服装が今日の気温にあっているのか肌で捉えてみると、かなりちょうどよかった。円盤に乗る派の「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」を観るために吉祥寺へと向かう。電車の中で、大切な依頼メールを2通送る。書き直してはメールアプリを一回閉じて保存。送る踏ん切りがつかなくて、何度も眺めているうちに、なぜだかすでに相手に送られているように思えてきた。まだ送られていないメールを読んでいるあの人たちを、頭に思い描いている。

「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」の舞台は、ひんやりしていた。温度も匂いも奥行きもない世界で、質量を持った人たちが話している。割り当てられた不自然さを持って動くその姿のなかに、妙に人間臭さを感じて愛おしい。「たましい」という個人を定義するもっとも根源的なものを、軽々しく他人に扱われてしまう世界観において、この人間臭さというものが、観ている上での手がかりになるような気がした。

インターネットのなかでペルソナ化される私たちも、こんなふうに割り当てられた人格を演じているのかもしれないけれど、身体の存在が私たちを容易に定義できるものではなくしている。だからこの演劇は「たましい」のことを話しながら、同時に「からだ」のことを話しているのだと思った。劇のなかで次々と語られる現実の似姿は、ざらざらとした未来への不安を増幅させる。それに抗うように、今ここにじっと座って、この演劇を観ている私たちの身体のことを、ずっと座っていることに耐えかねて体勢を変えたり、遠慮がちにもぞもぞしたりするその身体を思ってみる。

本屋に寄って、ずっと買おうと思っていた多和田葉子さんの「研修生」を手にいれる。天気がいいので井の頭公園で読もうかと思ったけれど、休日の吉祥寺の人の多さを見て、諦めることにした。少しだけ電車に乗って、古着や古道具を売っている知り合いのお店に行く。服を買おうと思っていたのに、なぜか惹かれて大きなウォンバットのぬいぐるみを買った。吸い込まれそうな、まんまるの黒目をしている。電車の窓から吹き込む風が気持ちいい。「研修生」を読んでいたら、あっという間に乗り過ごしていた。

西荻窪でパートナーと合流して、いつも行くお店へ。季節を舌で知ることの驚きが毎回ある。近くに住む友人も合流して話していると、ゆらゆら帝国のアルバム「3×3×3」が流れてくる。このアルバムは、初めて聴いた高校生の時からたびたび聴き直していて、たくさんの時間が刻み込まれている。だから懐かしさを感じることはあっても、過去の時間に戻されることなく、常に現在形で聴くことができる。

帰宅してから忘れないうちに日記を書こうとしてメモアプリを開くと、「8月20日運動会」と書かれたメモがあった。見覚えのないメモ。少し怖いけれど、消さないでおくことにした。

清原惟のプロフィール画像

清原惟(映画監督・映像作家)

清原惟(きよはらゆい)
映画監督、映像作家。17歳のときはじめて友人と映画をつくってから今まで、映画や映像をつくりつづけている。監督作『わたしたちの家』と『すべての夜を思いだす』がそれぞれベルリン国際映画祭フォーラム部門をはじめとした様々な国際映画祭で上映される。また、最新作の『A Window of Memories』が山形国際ドキュメンタリー映画祭2025で上映された。ほかの活動として、土地やひとびとの記憶について、リサーチを元にした映像作品を制作している。

「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」チラシ

「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」

会期
2026年3月12日(木)~15日(日)
会場
吉祥寺シアター(東京都武蔵野市)
公演詳細
TOP