––まず自己紹介をお願いします。
鶴田と申します。普段は「白昼夢」という劇団をメインに俳優をしていて、最近は人形劇の分野でも活動しています。「円盤に乗る派」は観客としてちょこちょこ見ていて、2年前の初演で初めて関わりました。「円盤に乗る場」を運営していることなどは知っていたんですが、カゲヤマさんがどんな人なのかはあんまり知らなくて、これまでは少し縁遠いところで活動していました。
––初演の時は突然オファーがあったんですか?
そうです。出演していた「お布団」の公演を見てもらっていたかなにかで、私のことを知っててくれて声をかけてもらいました。
『仮想的な失調』は私以外のキャストが「円盤に乗る派」か「円盤に乗る場」のメンバーで、これまで私は親交がなかったので、はじめはアウェイな気持ちがありました。演技の取り組み方は公演ごとに違うらしいんですけど、観客として見ていた印象では、ベースは統一されているように感じました。でもそのベースが何なのか、最初はわからなくて。カゲヤマさんも私と一緒にやるのは初めてだから、最初は結構手探りで、私に何ができるのかとかも試しながら作っていきました。今やってる演技じゃない感じのもの、いわゆるアングラっぽい演技体を試してみたり、みたいな時期もあった気がします。
––今の演技の形に落ち着いたのは、どういった選択だったんですか?
繰り返し言われたのは、まずテキストをよく読むということが大事ということでした。私の解釈では、テキストと身体や声のニュアンスがベッタリにならない、テキストはテキストとしてちゃんと空間にある状態を目指す、ということなのかなと思っています。普段はテキストと身体・声のニュアンスがマッチするように演技しているので、当時はどうやればいいかわからなくて、いろいろ試してみて、これは違うな、みたいなことを繰り返しました。
この作品では「質量のない身体」というのを目指しているんですけど、これも当時はよくわからなくて、みんなどういう風にやっているんだろうと思って聞いたんですけど、返ってくる答えはバラバラで。みんなそれぞれキャラクターとか俳優としての身体性も違うから、それぞれで見つけていくものなんだとわかって。カゲヤマさんを頼りつつ、自分で正解を見つけるしかないと模索していました。私の主観では、稽古中盤まで私だけなんか違うみたいな感じで、後半ぐらいから馴染んできたねと言われたんですけど、その時もまだしっくりきていなくて。だから本番が恐かったです。2年前にどうやって演技していたかもあんまり記憶がないです(笑)。でも幕が開けて、観客の反応を受けて、そこで初めて客観的に自分の状態を見れたような気がします。これまで自分がどうしたらこの作品の中に居られるか悩んでいたんですが、本番が始まって、やっと自分もこの作品の一部であることを実感できました。
初演の時は当たって砕けてを繰り返してたんですけど、再演で集まったとき、2年前よりみんなが何を言っているかわかると言うか、目指していることがわかってきたような気がします。劇場は容易にフィクションが立ち上がってしまうから、フィクションにしないために、この地面に立っていることを意識することとか。
例えば『ありがとう』というセリフに喜びとか悲しみのニュアンスをのせると、特定のイメージに結びつきやすくなるけど、テキストを読むように話すことで、テキストの持つイメージだけが浮かび上がるみたいなことを目指しているのかな、みたいな。でも、そこに身体がどうやってくっついていくのかはまだちょっと模索中です。
––初演の時はすこしバタバタしていたけど、再演ではいろいろ試せてる感じですか?
そうですね。初演の時は自分がやっている演技の言語化が上手くできなかったんですけど、今は初演を振り返りつつも、もう少し自分の演技を言語化しつつ臨めたらいいなと思っています。
––ディジュリドゥって私物なんですか?
あ、これはもともとは円盤に乗る派のもので、初演の時に小道具として買ったんですけど、「ほしいです」と言って公演が終わってからいただいたので、家に置いています(笑)。実際にディジュリドゥを鳴らさなきゃいけない場面があるんですが、成功率が低くて。初演も稽古の時は上手く鳴らせていたんですけど、本番になると上手くいかなくて(笑)。
––最初はアウェイだったと言っていましたが、「円盤に乗る派」への印象などを聞いてもいいですか?
場作りみたいなことも含めて、演劇の行為としてやっている印象があります。私も劇団に入っているので、広報で劇団イメージの打ち出し方に統一感があったり、場所を運営していることなども参考になります。メンバーのバランスも、カゲヤマさんが主宰で演出をやっているけどトップダウンじゃない感じで、下駄さんが運営や制作的なこともやったり、ウォッチャーとして渋木さんがいたり、畠山さんの柔らかい存在感も大きくて、みんな平等にいる感じがします。もちろんカゲヤマさんが作っている作品の色はあるけど、劇団の存在や場作りに対しては全員の色があるような感じがして、学ぶことも多いです。2年ぶりに関わってさらにそう思うようになりました。
あと、みんな普通に日中も働いていて夜に稽古してみたいなスケジュールで、外部の人も含めてそれぞれの活動や仕事も優先しつつ、無理なくやっている感じがあっていいなと思います。
––あと2週間くらいで開幕ですが、今の心境はいかがですか?
今回は読み合わせはせず、割とすぐ立ち稽古に入ったので、ちょうどこの前の稽古で読み合わせしたいなと思って提案しました。みんな集まった状態で読んでみたら、個人的にすごい良くて、改めてテキストの持つおもしろさを認識できました。例えば、「9太郎」が「9太郎」であることを信じすぎてたなとか。「・・・」は途中で「9太郎」としてそのように振る舞いますが、「・・・」は本当に「9太郎」なのか、別の可能性もあったんじゃないかとか。「・・・」が他者から名前を、社会性を、罪を貼り付けられているだけなんじゃないかとか。でも、そもそも劇場の中でも、俳優は観客にイメージしてもらうために自らに役を貼り付けるし、観客も役に抱いたイメージを自由に俳優に貼り付ける。当たり前のことなんだけど、そういったことが思い起こされる、そういう不気味さを持った作品だなと思っています。
––たくさんメモしてますね。
メモしないと忘れちゃって(笑)。稽古のフィードバックで話す機会が多く、ときどき何の話のことだろうってなって、宇宙に飛ばされてしまうことがあって。重要なキーワードとかを取りこぼさないようにメモして家に帰って、アウトプットの方法を考えたりしています。
『仮想的な失調』はSNSによって引き起こされる被害や加害にまつわる話もあり、2年後の今は初演時より、現実でもフィクションの中でも身近でありふれた話題になっていると思うんですが、この作品では、それそのものの問題を描いているのではないと思っています。幽霊のセリフで「イメージを抱いたことが、おれの罪のはじまりだった」という箇所があって、この誰かや何かに「イメージを抱く」ということは、それはSNSに限らず対面であってもそういうことは起こっていて。そのグロテスクさみたいなものが、この作品世界にとって大事なのかなと思っています。「・・・」が本人も望んでいるのかわからない中、様々な人に出会って、名前を与えられたり役割を貼り付けられている様子には、そもそもの罪の構造があるなと感じています。ビビットなテーマだけど、地に足つけて臨んでいるのでぜひ見に来てください。
2024年9月8日(日)
インタビュー・編集:中條玲
撮影:濱田晋