––自己紹介をお願いします。
蜂巣ももです。演出家をしています。「円盤に乗る派」とは、前身の団体「sons wo:」の企画で一度ご一緒してから、4回程現場をともにしています。共同演出や、衣装で関わってきました。今回の『仮想的な失調』が5回目ということで、結構一緒にやってきていますね。
––蜂巣さんはご自身の団体で作品を作ったり、他の団体で作品を作ることもあると思うんですけど、「円盤に乗る派」で作品をつくるということはどんな印象ですか?
今回5回目ですが、これまでの4回、これでよかったのか、この立ち位置であっているのか分からない状態でやってきていて、もうちょっとうまく作れるはずと思いながらそこに届かないみたいなことを繰り返してきました。主に演出として関わる時に、どうやって作ったらいいか分からないみたいな感覚が非常に多くて、無我夢中、五里霧中という感じです。これは他の団体ではあまりない感覚です。もちろん分からないことでの不安感とかフラストレーションみたいなものもあるんですけど、同じ分だけ、何かが噛み合えばもうちょっと上手くできそうなのにと思っています。カゲヤマさんが答えを持っているわけでもないので、都度どうなんでしょうね、と相談しながら進めてきた感じです。
––「分からない」と言っている、他の団体との関わりとは違う部分についてもう少し伺えますか?
一番は戯曲のあり方です。どう演出するか、テキストをどのように表出させるかが全く分からない、読み方すらも分からないということがよくあります。カゲヤマさんの戯曲を、演出としてどう演劇化させるか回答が得られていないという感覚がすごくあって、カゲヤマさんに書いた感覚を聞いたり、いろんな人の感想を聞いたり、演じている感覚を知るために稽古場で私も発語したこともあります。衣装として関わった時は俳優の身体がどのように表出するのがベストかということを探らせてもらいました。カゲヤマさんの戯曲が、演劇のためのテキストという認識でよいのかどうか、まだ部分的にしか掴めていません。
演出という役割は作品の頭から終わりまで全体感を把握していて、細部の広がりとその結実を掴むことが重要だと思うのですが、「円盤に乗る派」の創作においてはそこがまだ分からないという感じです。部分的にわかっていても、どういう1時間としてお客さんに感受されるのかが分からないという感覚です。
『仮想的な失調』の初演の時は、小屋入りして、照明や音の調整をカゲヤマさんにかなりお任せしたんですけど、そのカゲヤマさんの細かいイメージを共有して全部出揃った段階でようやく作品の全体がわかってきて、上演を見ながら、お客さんとこうやって出会うんだということをひたすら見つめていました。カゲヤマさんのイメージを見て、作り込み方を受け取ったという感じです。
初演が終わってからも考えていたんですけど、カゲヤマさんの演出は、例えば動脈とか太い血管の中心部分は表出されていなくて、毛細血管の先端、行き着いた先の濃度が非常に高く表出されて、密度、彩度高く形成されていくんだなと思いました。自分とは演出のやり方が全く違うなと思いました。私の演出は、戯曲と俳優が交差する地点から、演劇として状況が動く要因を整理したあと、自分なりのイメージが開かれていく感覚があるんですけど、戯曲と俳優の根源でどういう演劇が起こっているか分からないと作れなくて。だいたい、カゲヤマさんのイメージが濃密に固まっている状況とタイミングがズレるため、そこにどう入っていいかわからないという気持ちがあったんだなということが最近言語化できてきました。
––初演が終わってからしばらく経ってわかったという感じなんですね。
そうなんです。どういう演劇が起こっているのか、東京の中でも違うし時代によっても違うと思うんですけど、カゲヤマさんは私と違う思考で考えている人なんだなということが実感してきました。
––今回、初演を再現することが目指されていて、初演の時と同じ演出という立場で関わっていると思うんですけど、そのあたりの印象を伺えますか?
今回は初演を経ているのでめちゃくちゃやりやすいです。カゲヤマさんの譲れないラインを踏み外さずにアイデアを出せるのは精神的に楽というか、安全です。初演が終わって言語化されてきて、もう一回臨むということで心持ちが違う感じになってきています。考えられることも増えてきたという感じで。
『仮想的な失調』はある種の分からなさをカゲヤマさんが求めているところがあって、分からなさを作るということは思考が難しい。特に私は前述の通り、状況を整理したい思考を持っていて、それが深まっていくほどカゲヤマさんの分からなさという考え方に反していく可能性もあると思っています。初演の時は違和感があるところを伝えたり、もうちょっと踏み込めるんじゃないかという客観的な視点での意見を言っていたんですけど、今回は舞台上で何が必要か、劇世界の条理、不条理みたいなものが言語化できるかもしれないなと思っています。
例えば、最初のコンビニのシーンは、記憶を全て失った人物が社会に一歩踏み出して、ルールも振る舞いも分からない赤ちゃんが、社会のことをモノマネしはじめたシーン、と言語化すると俳優が動きやすくなって、同時にカゲヤマさんの演出と接触しない状態で成立しうることがわかってきたりしました。通し稽古をしてみないとどのようなバランスになっているのか分からないんですが、私が言語化することで俳優がちょっと地に足を着くことができたり、テキストが聞き取りやすくなって広がりが生まれるみたいなことが発生してきています。今回は初演よりもうちょっと踏み込んでいるという感じです。
––分からなさを抱えつつもカゲヤマさんの戯曲との相性がいいように思いますね。
ありがとうございます…
でも、去年「円盤に乗る派」が上演した『幸福な島の夜』は上演を見る前に戯曲の冒頭を読んだけど、何にも分からなかったんです(笑)。『仮想的な失調』は読みやすかったんですけど、どう読んだらいいのか分からない感覚はまだずっとあって、カゲヤマさんの音楽センスも知らない世界なので、そういう思考とか私が知らない「面白い」を知りたい気持ちでいます。
去年出会った本に、ある建築家の人が町の図書館でいろんな本を読む話が書かれていました。他ジャンルの専門書を読んで、細かいことはよく分からないし、何の数字が書かれているのかも分からない、時代が違うと距離感もよく分からないという本があったときに、全てをわかろうとするのではなくて、ぼーっと眺めるみたいな感じで何度も向き合っていると少しずつ言いたいことがわかってくるという話が書いてありました。そういう読書の仕方を知って、私のあり方もそういうことでもいいのかなと思い始めています。全部を制御しなきゃいけないと思ってしまう態度をやめて、薄目で眺めるくらいの感覚でいることが大事なのかなと。そうするとカゲヤマさんの戯曲ともすこし向かいやすくなってきていて、その感覚で俳優と言葉と演技を考えていくのも面白そうだなという実感が湧いてきています。この方向性をもう少し進んでいけば形になっていくような予感みたいなものがあります。
これまで「円盤に乗る派」の作品とかカゲヤマさんの戯曲に挫けたことがある人でも、『仮想的な失調』は比較的見やすいと思っていて、これが導入口になるんじゃないかという感じもするので、全てを楽しめなくてもいい、ぐらいの感覚で見てもらえる場にしたいなと思っています。
2024年8月21日(水)
インタビュー・編集:中條玲
撮影:濱田晋