時代の雰囲気はペシミズムに染まっている。いつまでも降り続く雨は気候変動のことを考えさせるし、AIはついに数学の重要な未解決問題を解き始めた。ジェノサイドは依然として止まらず、世界各地では極右が野放図に台頭している。人間は、人間自身へのオプティミスティックな期待と信頼を、もうかなりの程度失ってしまったようだ。二〇一〇年代に人文学の領域でポストヒューマン論が華々しく語られたのは、こうした状況への予兆だったのかもしれない。だが正直に言えば、私たちはそうした「終わり」の諸言説にもすでに飽き始めている。「人間の終わり」を語りつつ、「人間」に残された最後の共生的なチャンスを往生際悪く探しまわることに疲れた私たちは、むしろ「終わりの終わり」の乾いた絶滅的な風景をノンシャランに眺めたいような気分になっている。サングラスをかけ、タバコを燻らせつつ、ジャズでも聴きながら。
アプレゲール(戦後)、ただし始まる前から終わっていたカタクリズム(大洪水)に対する姿勢としての、先行的に事後的なアプレゲール。
「でも本当だって思えば、本当みたいな気もしてくるよ。あんたも言っていただろう。いずれは本当になるんだって。核戦争ってやつは、始まる前から、始まっているんだって」(『方舟さくら丸』)。
あるいはこうした風景は、すでに人間であることをやめ、非人間的な事物やオブジェクトに変身を遂げてしまった虚構的なキャラクターたちこそが眺める権利を有しているものなのかもしれない。「終わりの終わり」、それは決して悲劇の形式では語りえない出来事だ。すでに人間の姿をとっていない彼らにとって、それはコメディないしファース(笑劇)として映ることだろう。いまだ非人間の領域に達していない私たちにとっては、それはホラーのようにも見えてしまうことだろう。役者あるいは観客であるべき「人間」がその名を失い、いわば「人間そっくり」の何かとして回帰してこざるをえないような地点において、それはSFと解釈されることもあるだろう。
安部公房の初期の短編小説では、カフカやシュルレアリスムの影響のもと、人間がしばしば非人間的な事物/オブジェクトに変身させられる。「S・カルマ氏の犯罪」では壁に、「赤い繭」では繭に、「デンドロカカリヤ」では植物に、「詩人の生涯」では上着や氷に……むろんこうした事実をそれだけ取り出して、二〇世紀後半の日本を代表する小説家の一人である彼についての、ポストヒューマン論の観点からの再評価や再解釈の可能性を云々したりすることはできない。原則的に、芸術的表現はそれが生み出された特定の歴史的・社会的環境との関係のうちで把握されない限り、その真理を決して十分には開示してくれないものなのだから。また作家としての安部公房については、特に七〇年代以降、作品で言えば『箱男』や『密会』といった長編小説が発表されたあたりから、出版社および本人の意向で「無国籍的な」「前衛」というイメージが強く喧伝されてきたために、第二次世界大戦の終結後から五〇年代を経て六〇年代半ばまでに至る安部の、「政治的」であることと「文学的」であることとを弁証法的に──あるいは花田清輝が言う「楕円の論理」のうちで──両立させていた時期の創作活動のコンテクストが、現在の読者からはいささか掴みづらくなっているという事情がある。とはいえ、そうした「脱政治化」する読解傾向の責任は、必ずしも出版社や本人のブランディングだけに求められるべきものではなく、実験的に美学的であったり思弁的に実在論的であったりするような世界の見方(=ポストヒューマン論的世界観)の強みを、それが政治や社会や歴史から切り離されていることのうちにあるのだと相変わらず信じ込んでいる私たちの側にも責任があるのだ、ということは自戒とともに言い添えておかなければならない。
しかし、加速主義や人新世といった現代思想のキーワードがそれらに対応するところの、AIや気候変動といった「人間」を超えたスケールの(=ポストヒューマン的な)諸問題に直面している二一世紀の私たちが、多少そこに「非人間」的なイメジャリーが含まれていたとしても、はたして二〇世紀後半の日本の、言ってしまえば結局、それなりに人気のある小説家の一人にすぎなかった安部の作品にそれほど執着してみせる必要があるのだろうか。「伝統的な小説が前衛的な小説にくらべてものわかりがよさそうな表情を浮かべているというのではありません。筒井康隆だって、安部公房だって、薄気味の悪いほどものわかりがよく、その点では村上春樹と変わりません」という蓮實重彦の発言は、「批評」から見た安部の文学史的位置づけがどのようなものであるかをよく物語っている(柄谷行人との対談本『闘争のエチカ』「おわりに」より)。もちろん私たちは「批評」のこのような見解には同意しない。それでも、ワープロを国内で初めて本格的に使用した小説家であるとか、ラジオドラマやテレビドラマや映画の脚本を積極的に手がけていった人物であるとかいった、安部自身がかなりテクノロジー親和的でマルチメディア的な志向をもった、未来主義的な傾向をもった作家であったことを含意する諸事実が、それだけで二一世紀的状況における彼の重要性を証明するものだと見なすことはできない。マンガ・アニメ的な想像力との意外な親和性や植民地・満州で過ごした子ども時代の体験などへの注目についても、事情はほぼ同じである。そういう安全な関連性をいくら挙げてみたところで、現在の危機との目に見えるつながりは生じてこないのだ。思考を強いるような概念の共鳴を引き起こすためには、より危険な仕方で問いを立ててみる必要がある。
たとえば「安部公房は左派加速主義者だったのか」とか、「安部公房は人類の絶滅の可能性についてどのように考えていたのか」とかいったことを、私たちは臆せず内言してみなければならないだろう。そのように問うてみたとき初めて、キャロル的とかロブ=グリエ的といったおざなりな形容によって要約されていた彼の小説的イメージたちに、史的唯物論のあの抗しがたい、幽霊じみたエネルギーが荷電され始めるのだ。実際、安部の長編SF小説『第四間氷期』の冒頭では、予言機械と呼ばれる現在のAIを思わせる「ソ連製の」スーパーコンピューターが登場し、当初資本主義的な産業諸部門の物流状況や株価市場の予測などに使われ成功を収めていたのが一転、未来社会は必ず共産主義になるというセンセーショナルな予言を発して、冷戦下の国際政治にたちまち緊張を走らせてしまう場面が描かれている。この予言機械は、ある最初の予言を人々が知ったと仮定したうえでその行動を予測し(第二次予言)、さらにそれを人々が知ったと仮定したうえでの予測も行い(第三次予言)、こうした操作を無限に繰り返したときの極限値を計算したうえで、第一次予言との中間の値をとることにより予言を出力する(それゆえ自由意志と決定論は衝突しないで済む)。日本製の予言機械のエンジニアである『第四間氷期』の主人公は、自身の制作した機械を使ってこの不穏な予測結果の検証を行わせるが、そこから判明するのは、彼のAI(と言ってよいもの)が理解している共産主義の概念が「政治・予言・∞」、すなわち「あらゆる予言を知りつくしたうえで現れる、政治の無限次予言」だということであり、したがって「予言機械をフルに使っていれば、いやでも共産主義になっちまう」ということだった。政治的な含みをもたざるをえない社会的経済的予言は予言機械(AI)の研究開発の足枷になると判断した主人公たちは、個人の私的な(いわば「脱政治化」された)未来の予測に活路を見出そうとするが、事態は思わぬ経過をたどり、やがて断絶した未来──海底火山の異常活動によって海水面の破局的なスケールでの上昇が起き、人類は水棲人間への生物工学的改造と海底植民地への全面移住を余儀なくされるだろうという見通し──による日常的な現在への審判という巨大な出来事へと展開していくことになる。まだ存在していないはずの未来がそれ自身の現実化を、現に存在している現在に対して予言を通じて強制してくるという構図は──安部が「あとがき」で触れているように、これは主人公の助手が「単なる資本家の代理人にすぎない」ように見える一方で「予言機械を通して出される水棲人社会からの指令で動いている革命家」のようにも見えるという両義性のうちに託されている──悪名高いあの「暗黒啓蒙」のニック・ランドによる「ハイパースティション(超信)」の概念が示す図式と驚くほど似通っている。
非存在が存在を吊り支え、非存在が存在を実存へと連れ出す──これは幽霊の論理でもある。したがって、哲学者のジャック・デリダが『マルクスの亡霊たち』で『共産党宣言』の有名な冒頭の句から引き出し、批評家のマーク・フィッシャーが受け継いだ「ホーントロジー(憑在論)」の概念は、共産主義の仮説が資本主義の論理それ自身に取り憑いた幽霊であることを示唆する点でも、「ハイパースティション」の概念と並び、『第四間氷期』における予言機械(AI)が映し出す切断的未来の意味について私たちが考えるための手がかりを与えてくれるように思われる。とはいえ、二つの概念のあいだには重大な違いもある。ハイパースティションが未来という非現存による現在への強迫を扱うのに対し、ホーントロジーはむしろ過去における未来が現在に対して及ぼす干渉を扱っているのである。過去における未来、それは死者がもし生きていたならば、手にしていたかもしれない可能性のことにほかならない。(ちなみに安部は別のところでは、死とは未来の剥奪であるというこのテーゼを、「飢えて死につつあるアフリカの子どもの前で、文学が何の意味をもつのか」というサルトルの問いに対する答えとしても引き合いに出している。「飢えて死につつあるアフリカの子ども」がまさに奪われつつある可能性への文学的想像力こそが、私たちに苦痛を覚えさせ、私たちに書く手を止めさせているのだから、文学はむしろこれら失われた未来たちの呼びかけに応えなければならないのだ、と。)
「人間」は飢えるだけでなく、渇きにも喘ぐ。ホーントロジーは通常の意味でのアンビエントではない。そこには過酷なものが、聴くことを要求する声があるのだから。脱構築可能性/訂正可能性が幽霊を生むのだとしても、幽霊の声が語る潜在的な復讐、つまり正義は、脱構築不可能/訂正不可能な絶対性に属している。安部は『砂漠の思想』に収録された同名のエッセイで、砂漠を復讐の──とりわけ植民地主義の被害者側の民族による加害者側の民族への復讐が展開される空間として描き出していた。花田清輝が『二つの世界』所収「砂漠について」で描き出した、深くニヒリズム的でありながらも、分析と総合の往復運動によって破壊的であると同時に創造的な性格をもつものとしての砂の形象が、安部の『砂の女』に大きな影響を与えたことはよく知られているが、安部自身はそこからさらに一歩踏み込み、花田的「アヴァンギャルド芸術」の結晶する境位としての砂の上に、復讐の炎で揺らめく幽霊たちの非存在の影を政治的に透かし見ていた。もちろん第二次世界大戦中の大日本帝国の全体主義の犠牲となった国内の戦死者たちも、幽霊になる権利を有している(ただし彼らは被害者であると同時に、侵略がなされた東アジアおよび東南アジアの人々に対しては明確に加害者でもある──脚本を手がけた映画『壁あつき部屋』(小林正樹監督)での描写からも窺えるとおり、安部はこの点を見逃してはいない)。実際、戯曲作品「制服」「巨人伝説」「城塞」などで安部は繰り返しこうした戦時中の死者たちを登場させていた。特に「制服」および映画作品『おとし穴』(勅使河原宏監督)では、注目すべきこととして、政治権力が絡んだ不当な殺人の告発者として幽霊が観客の目にも見えるかたちで登場している。観客の視点をスクリーン上で代理しつつ証言する幽霊は、抹消された記録にもとづく、ある世界−外との連帯、ある不可能なドキュメンタリーの可能性を暗示するものとなっている。
要するに、いま私たちが知るべき安部公房とは、花田清輝らの「夜の会」に参加し、共産党に入党してその分裂期を潜り抜けつつ、「記録芸術の会」で再び花田のアヴァンギャルド芸術のプログラムの実行を試みた、五〇年代から六〇年代半ばの──花田の「砂漠」が分析的かつ総合的、破壊的かつ創造的であるのと同様に──〈政治的かつ文学的〉な安部公房にほかならないのだ。マルクスの『経済学批判』序説第三章におけるあの有名な、アルチュセールやレイ・ブラシエによっても注目された、分析と総合の往還による「思考における具体」の獲得の弁証法的手続きを、花田は「芸術の総合化すなわち大衆化」に向かう「楕円の論理」として学びとっていた。そして注意して見ていけば、六〇年代はおろか七〇年代の演劇スタジオを立ち上げた時期に至るまで、安部がみずからの「前衛」としての振る舞いを花田のこのプログラムに忠実に沿うかたちで──むろん『榎本武揚』流の忠誠=裏切りのもとにであるが──計算していたことはほとんど明らかと思われてくる。美術評論家・針生一郎が武井昭夫との論争を振り返りながら証言しているように、「抽象絵画とシュルレアリスムの対立を弁証法的に止揚し、新たな社会主義リアリズムへ」と要約される花田の〈政治的かつ芸術的な〉アヴァンギャルド運動の核心的理念は、具体的には、花田が映画のうちに見出した「ドキュメンタリー」と「ミュージカル」の結合の方向にその可能性=未来を有するものだった。『壁』の末尾に置かれた短編「事業」で描かれた、人間を食肉加工する工場を経営するグロテスクな資本家の姿が「搾取」の極限のイメージを提示するとすれば、短編「洪水」で描かれる重力を無視する液体となって街々を飲み込み、ついに世界を終わらせる労働者たちの姿は「革命」の極限のイメージを提供している。寓話的だとされる初期の変身譚は何のことはない、それ自体強力な、紙芝居や絵本の次元にまで降り立ったプロパガンダ/アジテーションだったのだ。花田の「鉱物主義」を下敷きに、非人間的なものへと一度「分析」され、再びそれらガラクタから「総合」された「人間」は、もはや甘っちょろいセンチメンタリズムに靡く、騙されやすい木偶の坊ではなくなっている。「終わりの終わり」の風景のなかで、安部は「人間」に、「未来の残酷さ」にも耐えるミュージカルを演じる力をもつことを期待していた。
さて、こうした事情を踏まえて眺めてみると、『第四間氷期』が発表されたのと同じ一九五九年に発表された戯曲「幽霊はここにいる」は、普段あまり安部作品に言及しない花田が激賞していたことも含め、きわめて重要な意味をもった作品であるらしいことが浮かび上がってくる。単純に安部の戯曲作品のなかでも三幕構成と規模が大きく、また同年に発表されたミュージカル「可愛い女」と並び、資本主義社会を風刺するブラック・ユーモアの要素がはっきりと出ている点でも、同作は注意を引く。だが「可愛い女」が資本主義の外部(?)への通路を安易に「女」として他者化するとともにジェンダー化することによって、『箱男』以降の安部の失速に対応するようなある種の弱点を曝け出してしまっているとすれば、「幽霊はここにいる」は明示的にそう名づけられていないにもかかわらず、むしろ砂漠的なミュージカルの熱、コメディ/ファースがもつ真の非人間的なエネルギーをまだ失っていないように思われる。というのも、この戯曲においては幽霊が被害者であること、ホーントロジー的身分をもつことそれ自体によって、むしろ資本主義の加速を、つまりハイパースティション的効果をもたらしてしまうという捩れが描き出されているからだ。「どれい狩り」や「快速船」を見てもわかるとおり、ハイパースティション的な詐欺商品が登場するのは安部戯曲に特有のトロープ(お約束)であり、またそれがコメディ/ファースの加速装置であることも明らかなのだが、「幽霊はここにいる」ではそれがホーントロジー的な正義とハイブリッド化されることによって、いわば笑えないほどに笑える次元に達してしまっているのである。このような効果は明らかに、「制服」や『おとし穴』では観客にも見えていた証言者=幽霊たちが、「幽霊はここにいる」では完全に見えなくなっていることで支えられている。商品の欺瞞的神秘は、それが感性的であると同時に非感性的であるということに存している、というわけだ。安部公房が『資本論』の「商品のフェティシズムとその秘密」を念頭に置いて、使用価値と人間的労働から限りなく遊離していく諸事物の社会的関係の不気味さをスラップスティックに描き出すべく、この戯曲を書いたことは明らかである。にもかかわらず、『第四間氷期』が暗示した予言機械による共産主義のハイパースティション的現実化は、「幽霊はここにいる」での死者の写真による資本主義のホーントロジー的現実化によって、結果として不穏な仕方で二重化されてしまっている。むろんこのパラドックス自体が意図的に組み込まれた仕掛けであることは疑いないし、共産主義と商品(資本)がともに幽霊じみていることはデリダ的ホーントロジーのそもそもの出発点でもあるだろう。だがそれにしても、不穏すぎるのだ。現代のホラー(怪談)では、語られた当の出来事を体験したはずの人物(記録者)がその物語のなかで死んでしまっているような体験談(記録)、いわば不可能なドキュメンタリーの形式がしばしば採用されるが、その読後感にも似た不穏さが「幽霊はここにいる」にはかすかに漂っている。基本的にはリズミカルなコメディ/ファースだからこそ、その小さな灰色の斑点が余計に気になる。現在における未来を守るためにも、過去における未来のこの厄介きわまる沈黙について考えたくなるし、そして考え続けるための時間の価値は放っておけばますます高まっていく。時間を買わなければ、という不穏な衝動に駆り立てられて観客も役者も、もはや「人間」ではいられなくなる。かくして寓話的な構造の不安定化とともに、安部がしばしば作者の分身として語った「内なる読者」の、輪郭の融解が生じることとなる──そこにいるのは、そこで私の声を黙って聞いているきみは、いったい誰なんだ?
私たちは二一世紀初頭の風景をだいぶペシミスティックに眺めていると先ほど言ったばかりだが、「終わりの終わり」のドラマをノンシャランに、不安にならずに眺め続けるためには、どうやらそんなペシミズムよりもよほど強靭な知性のスタイルが求められるらしい。五〇年代の安部公房にはそうした知性の身振りへの少なくともヒントのようなものが見出される、というのが私たちのひとまずの結論である。「人間」は始まる前から終わっていたし、もちろんそんなことは誰もが知っていた。そういう弁証法、コメディかつホラーな弁証法があるようなのだ。信じるか信じないかは、あなた次第であるが。
仲山ひふみ/Hifumi Nakayama
批評家。監訳書にレイ・ブラシエ『解き放たれた無』(共訳、河出書房新社、2026年)編著に『ポピュラー文化がラディカルな思想と出会うとき――マーク・フィッシャーとイギリス現代思想入門』(共同監修、Pヴァイン、2026年)、論考「聴くことの絶滅に向かって――レイ・ブラシエ論」(『現代思想』2016年1月号)、「ポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築――フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへ」(『10+1 website』2019年10月号)など。