『清潔でとても明るい場所を』書簡への応答


photo by Arata Mino

『清潔でとても明るい場所を』

東京公演
2019年8月8日(木)〜12日(月祝)
会場:BUoY
http://buoy.or.jp/

浜松公演(ワーク・イン・プログレス公演)
2019年8月3日(土)
会場:浜松市鴨江アートセンター
http://www.kamoeartcenter.org/

公演詳細:https://noruha.net/gallery/records02
書簡集:https://noruha.net/gallery/records02/letters


お返事が遅くなり大変申し訳ありません。どのタイミングで返答をするべきか、だらだらと考えていて遅くなってしまいました。みなさんから書簡をいただいてから、このお返事を書き始めるまでの期間(世間的には決して長い期間ではありませんが)に、世の中にはいろんなことが起こりましたし、様々なことを個人的に考えました。多くのものがとても速いスピードで変化していて、それには自分も含まれています。みなさんの書簡を読み直していて、上演をした当時のことを考えながら、しかしそれは自分の体験としては適度に今の自分の身体から乖離していて、半分他人事のようにも感じられます。もしかしたら、この速度に対抗するために、わざわざ効率の悪いこの演劇という文化をやることが大事なのだという向きもあるかもしれません。自分はしかしこの速度自体は否定しきることができない、半分はそれこそ、リラックスする状態でノッていくしかない、とは、考えています。とはいえ、こうやって書き始めるのは明らかにいささか遅いわけなので(申し訳ありません)、このお返事は、その速さと遅さの間にいながら、場合によっては引き裂かれながら、書きたいと考えています。

さて、個人的なことを。今年はどことなく落ち着かなくて、気が立ったような日が多かったのでした。去年引っ越しをして、環境が変わったせいもあるかもしれません。いつになくやることが多くて、常にマルチタスクで動いていましたし、思い切った休みもなかなかとれなかったせいかもしれません。肩こりや頭痛もしょっちゅうありました。『清潔でとても明るい場所を』も、へろへろになりながらやった上演でした。苛立って、稽古場の空気を悪くしてしまった時期もありました。俳優のみんなのおかげで、なんとか持ち直して、上演に漕ぎ着けることができましたが、反省することしきりでした。

とはいえ、あの上演をやらなかったら、自分はもっと参っていたかもしれない、という気がします。実際、本番を迎える時期からしばらくは調子がよかったのです。真夏で暑かったけれど、ワークインプログレスをやった浜松はカラッとして心地よかったし、あのカラッとした空気がふたつ隣の県にあると思えば蒸し暑い東京でもなんとか過ごせた。公演が終わって8月の下旬に差し掛かるころには、だんだん日の沈むのが早くなる夏の終わりを感じるだけの余裕がありました。

9月の終わりごろ、ニュースがあってまた状況が変わりました。文化庁が芸術祭への助成金の不交付を決定したというもので、これを読むみなさんには今更説明する必要はないかと思いますが、芸術に関わる人たちの間には大きな震撼がありましたし、そうでない人たちにも重大なこととして受け取られました。芸術祭がいわゆる「炎上」をしていたことは以前から知っていましたし(まさに浜松に向かう車内で、Twitterを開いていたキヨスヨネスクから、何人かの政治家がネガティブなコメントを出したことを聞いたのでした)、その後の展開も追ってはいましたが、そもそも当の展示どころか芸術祭自体にも行けていないので、特に自分から何かを発信したり行動することはしませんでした。しかしそのニュースは、どうしても芸術と文化行政に関わっている自分にとって決して無関係ではないし、むしろ何かを表明する義務すらあるとも感じたのでした。そして当日、Twitterで島貫泰介さんの呼びかけを見つけ、そのときヌトミックの稽古場に行く電車の中だったのですが引き返し、文化庁前に向かいました。早く着きすぎて一番乗りになってしまい、朝日新聞の取材を受け(何も載りませんでしたが)、人が増えてからはシュプレヒコールをし、一回だけトラメガを持ちました。

それからまた体調が悪化しました。暇さえあれば常にネットをチェックし、新しい情報があれば読み、議論(とも呼べない言いがかりも含めて)を追い、scoolの緊急集会にも参加し、#PublicAppleというアクションも起こしました。体が常に緊張しているような状態になっていたのだと思います。恋人からも「あいトリの件はいったん離れたほうがいい」と言われました。自分では冷静な距離感をとっているつもりでいたので、大丈夫だと答えたのですが、やはり取り込まれていたのだと思います。新作の準備も進めなくてはならなかったのですが、進行は予定よりも遅れがちでした。

さすがにちょっとこれはまずいと思い、生活サイクルを見直し、SNSを見るのも制限し、カフェインやアルコールを摂る頻度を減らして、なるべく気晴らしを(サウナ)するように心がけ、最近やっと回復してきましたが、あのとき自分がダークサイドのようなものに踏み込んでいったような感覚があったのは、しばしば思い出されます。

『清潔でとても明るい場所を』は、ある不安や、なんというか「悪いもの」にどう対応できるのかについての上演でした。そこであればリラックスできる、清潔でとても明るいトイレのような場所を、力まずに志望するようなあり方をなんとか体現したかった。浜松でのお話し会では「自分にとっての個人的なセラピー」という言い方もしました。その対応しなければならない不安や「悪いもの」というのは、まだ漠然とした、捉えどころのないものであったと思います。しかし現実においては、悪意のようなものは突然にすぐ近くに現れてくることがある。そのとき体は「ギョッとする」のでしょう。ギョッとしても尚、正気を保ち、リラックスしていられるだろうか、という疑問に対して、ますます回答が難しくなっています。そのために何か準備をしておくことができるでしょうか。

そして、このことについてお話しすることが、みなさんの書簡に対する返答になるのではないかと思います。演劇は人生の実験場という古い言い方があり、それは様々な人生のあり方を俳優が演じるのを第4の壁越しに眺めることによって、観客個々人が自らの人生について反省するといったものですが、私はもっと直接的なあり方で、演劇は生き方のトライアンドエラーを繰り返すものだと考えています。演劇を通じて何か生きるためのアイディアを得、考え、あるいは実践し、人と共有するといったことが、まさに文字通りの意味で起こるのだと思います。この書簡はそのために募集してみたのです。だから公演が終わった後の個人的な実践も含めて、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

先程、自分の実践した#PublicApple(詳細はhttps://twitter.com/kageyama_kisyo/status/1178664988648435712?s=20)というアクションについて否定的な書き方をしました。実際、こういうアクションを自分から主体的にとるということそのものには、「いやいやながら仕方なく」という思いがありました。本当なら自然発生的にこういう対話は起こってほしいし、劇場はそもそもそのために機能するはずだ。演劇をやっている自分が、わざわざこういうことをやらなければならない現状にうんざりするし、それをやるためにどことなく「作品」めいたふるまいをしなければならない、なぜかというとそれでないと効果がないと知っていたから、ということにも脱力感がありました。本当であればただ自分は演劇をやっていれば、それそのものがアクションであるはずなのに。やったのは義務感のようなものだったし、そしてそれは体のこわばるようなものでした。とはいえ、実際に起こったことそのものはよい体験だったのです。路上で偶然出会った人が、特定の話題について、10分程度会話をする。路上という、誰のものでもない開けた場所で、個人的な話題には踏み入らず、しかもいつまでも話が終わらないという不安とも無縁でいられる。いつ切り上げようかと考えなくても良い。ルールをみんなが守り、きちんと意見を表明し、しかもちゃんと相手の話を聞く。非常に素朴な意味で、理想的にリベラルな場でした。日常の場においては、たとえリベラルな考えの人であっても、付き合いが長くなればどうしても仲良くなり、甘えのようなものが生じがちです。その甘えはどこかルール外のものとして関係性を支配してしまう、しかしその甘えは同時に快楽でもあるので、一概に否定することも難しいでしょう。#PublicAppleにおいては、その甘えの生まれる隙もないまま別れが来ます。もちろん、この理想的なあり方は参加していたのが比較的少人数で、しかもある程度は考え方の近い人たちだったからだとは思います。しかし、この世に存在する自分とは全く違う存在、考え方も普段触れている情報も周囲の環境も全く違う、想像も及び難い人たち、のことを、どのように考えたらよいでしょうか。忘れきってはいけないけど、しかしその人たちとの距離はどうしても存在しています。その距離も同時に喪失してはいけない。

体調の悪化した秋、その他者たちとの距離をあまりに無視し、その「人格」のようなものについて考えすぎたのかもしれません。そして、何とかその人たちと、その人たちも含むこの「社会」というものに対して、何らかの意味のあることをしなければならないと焦りすぎたのかもしれません。それは無意味だったとは思いませんし、必要なことでもあると思います。しかしうまくやらないと、どうしても無理がきてしまう。本当は自分は、無理しないで実践する方法を演劇を通じて学んできたはずなのに、それをうまく活かすことができなかった。まだ自分には、演劇と社会を往復するための筋力のようなものが十分に備わっていないのかもしれません。確かに、社会に対して何かをやりたいというモチベーションで演劇を始めたわけではありません。それは確かに幼い自己承認欲求ではあったでしょう。しかしある程度演劇を続けられているのは、やはりそれだけのモチベーションでやっているわけではない。続けている中で、どうしても社会的である自分のあり方と、演劇の存在は絶対的にリンクしています。でもうまく乗りこなすためには、それなりの筋力がいる。それをどうしたら鍛えることができるか、これから試行錯誤を続けていかなくてはいけないと考えています。

そしてその方法は、おそらくありふれた方法であって、演劇の言葉と身体について実践していくことが第一だと思います。ここを鍛えていきながら、社会の中でも演劇の言葉と身体が実践していくことができるように。非常に安直ではありますが、そのためには劇場に閉じこもっていてはいけないし、知らない場所に行かなくてはならない。そのためにはインターネットを利用しなければいけない状況も多々あるでしょう。そのときにクリアな頭でいられるように、同時に生活についても整えていなければならない。ほどよく真面目に、ほどよくふざけていられるように。それでもそのやり方に固執しないように。そういうモードで演劇を続ける生活をやっていきたい、というのが現状の自分の状態です。

一旦ここで終わりにしたいと思います。個別の質問に対して具体的な回答ができず申し訳ありません。ぼんやりとでも答えになっているものもあれば、まったく回答できていないものもあるかと思います。いずれの質問も、これからの活動の中で返答していけたらと考えています。みなさま、今回はありがとうございました。

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