円盤に乗る派 かっこいいバージョン『おはようクラブ』
2020年1月11日(土)〜13日(月祝)
会場:吉祥寺シアター
公演詳細:https://noruha.net/next

共同演出の稽古の様子を記録します。記録者は、自身も演劇ユニット・亜人間都市で制作を行う劇作家・演出家の黒木洋平さんです。独立した視点で創作に立ち会いながら、その間に働いた思考や問題意識にも踏み込みつつ、演劇が立ち上がる様子を記録として残していきます。不定期更新。
No.3(2020/1/10)
「内と外」と単に言うとき、その意味の線引きはハッキリしている。円を思い浮かべ、どこが内でどこが外と指し示すことは難しくない。しかし「人間の内側と外側」というときは、そこに明瞭な線引きは存在しない。

確かに、人間の内側と外側は異なる。人はその内側で、外から見える通りに何かを考えたり感じたりしているわけではないだろう。ニコニコしていたって呪詛を唱えているかもしれないし、「いいですよ」と言いながら凄くイヤだと思っていることもある。内と外は同じではない。

かといって無関係かというとそうでもない。似たような感性を持つ人が似たようなファッションに身を包んでいるのは偶然ではないし、面白いと感じるからこそ人は笑うのだし、そこで「いや、そんなでもないでしょ。笑わなくていいよ」とか言われたら困惑してしまう。だって面白いと思ったんだもの……。

とはいえ、他人がそれを分からないのと同じ程度には、自分もそれを分からない。内と外は密接に関係していて、相互に影響を与え合っていて、しかし異なるものだ。そこには線を引くことができず、しかし引かないわけにもいかないだろう。

「内」と「外」に分けての共同演出というアイデアも、初めに聞いたときはナルホドと思ったものの、やはりというか上記のような問題に直面することになった。「内」の演出を行うカゲヤマさんが、当初から「でもこれは蜂巣さんの領域になってしまうな」と度々口にする程度には、「内」から「外」へ踏み越えてしまっていた。

それを引き継ぐ蜂巣さんも、うっかり「内」へと踏み越えてしまわないように慎重さで演出を行なっていたが、苦労の様子が見えた。「内」と「外」の線引きが分からないでは、探知機もなにもなしに地雷原に立たされるようなものだろう。動こうにも動けないのが道理だろう。引き継ぎが行われて以降も、なかなかシーンが作れずにいた。

どこからどこまでが「内」なのかがハッキリすれば、自ずとどこからどこまでが「外」なのかも決まるだろう。だが、そのような序列のある関係でよいのか。むしろそうした関係への抵抗として分業が行われているのではないか。でなければ「内/外」というような対等な表現にはならない、「演出/演出補佐」でよいのだから。

誰かが決めないと始まらない。しかし誰かが決めてしまうのでは良くならない。ファーストペンギンを生まずに海に飛び込むにはどうしたらよいのか。その矛盾を抱えたまま、しかし時間は確実に過ぎてゆく。苦しさがあった。焦りもあった。どうなることかと見守っていたが、転機は訪れた。

それはほんの小さなきっかけだ。誰が言ったのか定かでない。なんとない話の流れ。これまでどんな風に作ってきたのか、どう作っていくべきか、という議論が一巡した先での「とりあえず好きな風にやってみたら」と誰かが言った。それを受けた誰かが「じゃあどんな風に登場したい?」と雑談のような軽さで聞いて、出演の畠山さんが休憩中の冗談のような軽さで「俺ならこういう感じ」と試してみたアクトがとても良い、ということが起こった。それに続いて出るなら、と横田さんのアクトが決まり、他の出演者のアクトも決まり、それならこうしたほうがいいと蜂巣さんが演出を加え始めた……。

それは「起こった」と表現すべきだろう。「決まる」ということが「起こった」。誰かが「決めた」のではなかった。徹底的な消極性の果てにシーンが起こり、演劇が駆動し始めた。ファーストペンギンはいたかもしれないが、誰も分からないのだ! なんという無責任。しかし、そこに希望を見出すことこそが稽古という作業だった。見逃してしまうほどに小さな小さな表現は、責任なんてものを抱えていてはとうてい表に出せないだろう。

「内/外」の線引きはついに行われず、「踏み越えないように」というような遠慮もその後は見かけなくなった。役割はあるが、明瞭な線引きがあるわけではない。その状態を維持したままに作品制作が進められていくのは、とても野性的で、暴力的で、そしてとても理想的な在り方だと思われた。これこそがまさに今作が問うているコミュニティの関係性のことではないだろうかと思った。

まもなく作品が始まる。美術や照明が加われば作品はより複雑になり、より誰かが「決めた」ものではなくなっていく。稽古場で「起こり」、劇場で再び「起こる」その現象は『おはようクラブ』と名指されている。あとそれは「かっこいい」。ルールのないワイルドなコミュニティは、確かに長続きするものではないかもしれない。公演もほんの3日間のものだが、しかしその3日の間だけは確かに起こりうる。私たちはそれを目撃することができる。



No.2(2019/12/24)
ある俳優の書いた、ハラスメントの告発とまではいかないが、演出家との関係についてのちょっとした暴露的な文章を読んだ(なお、円盤に乗る派とは関係ない)。当の演出家の言動について、風の噂に聞いていたところもあったので、別に驚くこともなくただ「そうか」と思った。しかし、いろいろと意識が変わってきていますねぇ。

その日は仕事を休んで家で寝ていた。早起きしてしまった朝のことだ。余裕を持って朝支度をしていた。出来心の浮かぶ余裕もあった。今日べつに仕事に行かなくて良いのでは? そんな筈はないので支度をする。けれど昨日は上司も休んでいたぞ? 休んだら他の人に迷惑がかかるんだってば。納期まだ先だし迷惑でもないのでは? だとしても当日欠勤は評価に影響が出るし体面とか……。体面とか気にする人間だったっけ? 気にする人間なんだよぉ~。

気が付けば30分が経ち、出来心を潰すのに時間的余裕がまるまる潰れた。結局いつものように遅刻寸前で家を出て電車に乗った。乗り換えの駅まで辿り着き、重大なことに気が付いた。ネクタイを忘れていた。業務にネクタイが必要な理解について5分くらい考えて、よく分からなくなってしまったので、上司に体調不良の一報を入れ、来た道を帰った。

円盤に乗る派の稽古が吉祥寺シアターで行われていた週のことだ。日中の稽古だから仕事と被っていけないやと思っていたが、仕事を休んでしまった。稽古を見に行くか悩んだが……仮病を使った日には、なぜか病人らしく振る舞ってしまう。健康なのに。誰に見られるわけでもないのに。私はレトルトのおかゆを温めて食べた。安静にしようと横になった。乗る派の稽古場LINEグループでは、出演の上蓑さんが遅れる連絡をしていた。遅れるついでに養生テープのおつかいを頼まれていた。色の有無を確認していたが、無地で良いとのこと。私は安心して眠りについた。

記録という役割なのに吉祥寺シアターでの5日間に渡る稽古には結局伺えず、ワークインプログレスの段になってようやくのこのこと観にきた俺。そして上演を見た。それは演出が「内面・内側」を担当するカゲヤマ気象台から「表れ・外側」を担当する蜂巣ももへと手渡される5日間の稽古を経ての上演だった。 その背景も踏まえ、色々な演出が「外」から加わっているのかと思ったが、想像は外れた。というよりは、これまでの「内」の稽古で作られた状態が強く浮かび上がるものだった。外見に要素を貼り付けるのではなく、「内」に作られたものを尊重し、その延長線上に必然的に表れる「外」を探している印象で、それば誠実な態度のように思った。

だが、それに加えて、私は冒頭に書いたハラスメントについての状況のことを思い出していた。

……私はハラスメントにまつわる言説を読むとき、釈然としない。これは、いつもそうなんだが、私は加害者のほうに共感してしまう。自分の置かれがちな立場が近いからだ。いちおう男性だし、演出したりする。なぜハラスメントを起こしてしまうのか、身に覚えがあるとかでなくても、起こす気持ちはとてもよくわかる。その意味で、私は被害者の気持ちがわからないのかもしれない。

もちろん、自分も何かの被害者になることはある。私は比較的痩せているが、男性が痩せていると「もっと食え、筋肉付けろ」みたいなことを言われる(とりわけ女性から)。ハァ、たらふく食うとるワ、それで太れんのじゃボケ、ええやろーが別にこれで、ステレオタイプ押し付けんなやハゲ……とは、わざわざ言い返したりはしないが、ニコニコしながら嫌な思いをしているときもある。

ただしそれで「お互い様」になるわけではない。例え被害者になることはあっても、加害が帳消しにはなるわけではない。加害と被害は非対称な関係だ。しかし、非対称だからこそ、人は被害のことばかりを覚えている。弱者が強者に立ち向かい、正義を勝ち取る物語ばかりを記憶してしまう。ハラスメントが起こったとしても、どちらが被害者かということの争いが起こり、そもそもなぜその出来事が起こったのか、どうでも良くなっていく。

加害と被害は非対称で、しかしそれらがワンセットでハラスメントは成り立っている。だからハラスメントについての言説、例えばMeTooのようなものを読むのでは物足りないのは、それだけではハラスメントという現象の片面しか理解できないからだ。

私は加害者の立場に立っている。だからこそ私は加害者への共感の必要性を思う。もちろんその共感は肯定とは異なる。再び起きないようにするためにこそ、なぜその加害が起こったのかを理解しなければならない。「加害を否定しつつ、暴力に共感する」ということ。

……上演を見ながらそんなことを思い出していたのは、ワークインプログレスの上演に優しさや過敏な弱さを感じたからだ。その場に起こることを敏感に感じ取り、全てを拾い上げようとするような演技だった。見ることの中には豊かな可能性があった。だが、その弱さでは物足りない。とても良い、だが好きにはなれない、というような。誠実でも、演劇作品であるためには欠けているものがある。

終演後のフィードバック会で「全体性を見えるようにしていく」という表現で反省的に語られたのには納得があった。ある見方を作り手の側で用意すること。それで豊かさを損なうとしても、観客の解釈可能性が奪われるとしても、でも、それは必要な作業なのだった。

豊かすぎると何も見えなくなってしまう。狭めてほしい。奪ってほしい。そのような暴力を、少なくとも私はいち観客として求めている。おかしな話ではない。立ち止まってしまったときに、背中を押してほしいというだけのこと。それも足が出てしまう程度には強く。けれど転ばない程度には優しく。わがままかもしれないが、おかしな話ではない。それを求めて人はわざわざ劇場に来る。表現とは暴力だが、それこそが必要なのだ。

ただし先の話と繋げるためにも、区別しておかなければならない。暴力と加害は、地続きではあるが、違うものだ。加害となることは避けなければならない。しかし暴力であることまで避けなくてもよい。むしろ暴力であるべきだ。暴力だからこそ、見るに値するのだ。

暴力の「暴」という字は「さらす」と読む。「あばれる」のイメージが強いので感覚的にわからないかもしれないが、「暴露」と書くときなどで「さらす」の意味で使われている。この「あばれる」ではなく「さらす」という意味での「暴力」、「力を暴す」ということ。いま語っている「暴力」はまさにこのようなイメージのものだ。暴力。力をさらすこと。加害を避けるための暴力。それこそが表現だ。

ワークインプログレスで見た上演には表現が欠けていた。しかし、それは折り込み済みだった。単に制作途中だからではない。「内」と「外」という分業によって制作されているからだ。「内」の稽古によって態度が築かれた。表現は、この先の「外」の稽古によって作られる。どのように作られるのかは分からないが、分業によって、よりこの「外」の部分に、つまり加害を避けるための暴力に、表現するということに注目して考えられるんじゃないかと思う。なんとか重要なものを発見したい。そして記録として書き留めることができたらよい。それをやり遂げるまでは俺に2020年は来ないと思おう。



No.1(2019/11/27)

人と話すとき、結構かなり病的に「発言量の均等さ」のことを考えてしまう。例えば一対一で話すなら、発言量は半々であるべきだと私は強く思っている。といってもそれは上手くいかないときもあるし、上手くいかせようと過剰に頑張っても息苦しくなるだけなので、綺麗な半々にはあまりならない。でも、なるたけそうなるように努めている。人との良い関係がそこにあると信じていて、私はやっぱり、人とは良い関係が良いです。

そして良い関係のことを考える時、私はいつも真逆である最悪の関係のことを思ったりもします。とりわけ「最悪の飲み会」のことをなどを思い出す。あなたは経験があるだろうか。「最悪の飲み会」とは次のようなものだ。

その場を取りまとめる誰かが、自分と自分の仲の良い誰かとだけで、ある話題で延々と話している。大変盛り上がっているのは良いが、私はその話題に明るくなくて、どんな風に話題についていけばいいか分からない。その話よく分からないです、とも言えない雰囲気なので、私はただニコニコしながら話を聞く。しかし、いつまで経っても会話のバトンは回ってこない。だんだんその場における自分の存在意義を見出せない。来るんじゃなかったと思う。ニコニコしながら酒を飲む。いつもの十倍の疲労で家に帰る。

これが「最悪の飲み会」です。

私がたいていおしゃべりな方なので、思ったことを言えない場というのが本当につらい。なので他の人がそんな風に思っていると嫌だなと思って、他の人も話せるようにと気を配ってしまう。なんなら強迫的にそれをしている節がある。「されて嫌なことはするな」と父親に強く言い聞かされて育ったのが呪いみたいに作用している。怖い。しかし一方で、これは私の大切な倫理です。

でも、前に読んだ本で次のようなことが書いてあった。曰く「誰もが沈黙を破ったり、新しい話題を切り出すことができているか。それがいつも同じ人でないか。そうしたことが対等な関係性の指標になる」と。自ずから喋り始めることができるかどうか、ということだ。それは発言の量とは少し違った観点で、とてもなるほどだった。確かに、発言量が均等でも、誰かに質問責めにされたりして喋らされているのだとしたら、あんまり対等な感じはしない。

自ずから喋り始めること、「沈黙を破る」「新しい話題を切り出す」というのは、しかしとても難しいと思う。勇気がいることだ。私には出来ないことが多い。少なくとも「最悪の飲み会」ではできなかった。あまりに恐怖だった。自分が切り出した話題が場を白けさせたら……そして何も起こらなかったかのように元の話題に戻っていったりなんてしたら……。

わかってくれとは言わない、だが、そんなに俺が悪いのか? ああ、俺のハートはギザギザでチキン。子守唄で即永眠さ。これが俺の眠った横顔。勝手に震えてろ、ライオンハート。

……そんな夜もあった。2017年5月のことだ。

現状肯定的ではない発言は疎まれがちだ。「沈黙を破る」ことも「新しい話題を切り出す」こともそうだ。とても勇気が要る。だからこそ、円盤に乗る派の稽古場で、俳優が「このやり方で上手くいっているのか分からない」と言っていた、そうした発言が起こることに私は感動したりした。

そのときの稽古場では、稽古の方針について話されていた。円盤に乗る派の今回の作品『おはようクラブ』では二人の演出家が演出を行う。カゲヤマ気象台が「内面・内側」からのアプローチを行い、蜂巣ももが「表れ・外面」からのアプローチを行う。時間的にもそれは前半・後半で分かれている。

そして今、つまり前半は、後半に向けたある種の下地作り、準備の時間として進められている。後半の稽古でどのようなオーダーが来ても良いように皆で備えている。しかしそれは言葉にするほど分かりやすくはない。何が来るのかも分からない中で、何に備えればよいのか。内側を作るといっても、そもそも内とは、外とは何なのか。いま行っているこの稽古は何なのか。何のためのどこに向かう稽古なのか。

こうしたイメージは最初から全て把握され、共有されているのではない。稽古を行いながら定まっていったり、あるいは円盤に乗る派ではそれを定めないことが試みられている気もした。なのでまずとても広い枠組みの中で台詞を言う、動く、という稽古が行われた。それから演出家がどう見えたかフィードバックがあって、俳優も何を感じたのかを話していた。その定まらなさの中で、俳優が「このやり方で上手くいっているのか分からない」と言った。私はその時間のことをずっと覚えている。

俳優の「分からなさ」は、誰かのアンサーによって解決するのではなくて、その正体が何なのかと語りながら俳優が真摯に考えることで、また周囲の人間によってその語りが穏やかに聞き遂げられることで、徐々に融解していったように見えた。その現れ方と解け方には、不確実性を訴える勇気と、不確実性を受け止める寛さがあった。

そのくらいのことは、円盤に乗る派の稽古場でなくても起こりうることかもしれない、と思わないでもない。それよりももっと円盤に乗る派の作品が実際どんな方法論で作られていて、どんな演出論、どんな演技論の上に作品が成り立っているかの具体的なことを、多くの人は知りたいのでないか……とも、思わないでもない。

けれどいま私は、そうしたことにあまり興味を持てない。演出家と俳優がどんな議論をしていたのかとか、それを書けば演出論や演技論の記録になるかもしれないが、全く書けません。びっくりするくらい覚えていないのです。「記録」としては致命的な欠陥かもしれない。とても申し訳ない。でも、私にはいま、俳優が「分からない」と言ったあの時間のような、「不確実性」と向き合う時間のほうがとても大切で、なんとかそれを書き留めたいと思うのです。

でも、この円盤に乗る派のこの前半の稽古、「内面・内側」の稽古は、まさに「不確実性」と直接対峙する稽古だったりするのではないかと思ったりします。具体的な演出論、演技論を書かなくても、稽古場での些細な会話、流れる空気を書き留める中に、円盤に乗る派の演劇に対する価値観が、実は滲み出てくるかもしれない。そうしたことには期待して良いと思います。作品もまた、そうしたものに満ちたものなるのかもしれない。それにも期待して良いと思います。



No.0(2019/11/1)

これは昔だけど一度だけ、演劇作品の記録に失敗したことがあります。というのも、とある演劇祭に参加したときのこと。私はなぜか運営側が記録の手配をしてくれるものと思い込んでいて、自分で記録の準備を全くしていませんでした。で、劇場入りした後に撮影の機会がないことを知り、慌てて用意したビデオカメラでなんとか最後の上演を撮影しようとしたけれど、時間も余裕もなくカメラの設定を何も確認しなかった結果、撮れていたのは台詞のギリギリ聞こえない雑音と、ただの真っ黒な映像。あれは悲しかった。そして申し訳なかった。作品制作に関わってくれた多くの人たちに。

残さなければ残らない。なんにも。全く。とりわけ演劇は。「そんなものは存在しなかった」と言われたらどうしよう。「でも、在りましたんです……」と言っても根拠がなければ信憑性もない、信じてもらえるだろうか、とても怖い。工夫や技術や努力のなんと儚い。それらは見えず、およそすぐに消えてしまう、まるで最初からなかったかのように、、、、、、、、、、、、、、、、。だからこそ映像でバッチリと残せたら良いのにね。そうだね、しかしそんなコストをかけられるほどの余裕やお金が、必ずしも全ての演劇にあるわけではなかった。そう、余裕はともかくお金は、最初から、、、、なかった、、、、。儚い以前の問題だ。それはとても悲しいことだ。

しかし、それでも演劇に希望を見出すのは、舞台上の体が、私たちの自由を強く証明してくれるからです。体は、表現している。本人が思うよりもはるかに強く。口にする言葉が人の言葉であっても、決められた振り付けの中にあっても、体のぎこちなさに、あるいは柔らかさに、他人とは異なる肘の角度に、足踏むリズムに、違和感もしくは親和性がとっくのとうに示されている。時間と距離が、時代と歴史が、過去と未来が、そこには如実に現れている。それは抑圧に抗う唯一の方法だ。なぜなら表現は、つねにすでに、表現されている。抑圧の挟む余地などそこには存在しない。

だからこそ、失われてしまうことこそが最も怖い。なかったことにされるならなおさら。例えば演劇はその制作過程が見えにくい。上演を見て素晴らしい作品であるとして、その背後には何があるだろう、とびきり素敵で理想的な関係性がそこにあるのならば知りたいだろう。また逆に、そこに大変なパワハラがあったのだとしたら……いや、パワハラなんて存在しなかったよ、ね、そうだよね、君? ハ、ハイ……。プルプル、俺は震えている。だが、なんとか書かねば。戦うための力が必要だ。神よ、私に幾ばくかの勇気と、、、、、、、、幾ばくかの、、、、、二百万円を、、、、、授けたまえ、、、、、アーメン(amen)、、、、、、、

どちらにせよ、背後にあるものは表からは見えません。いやむしろ、本当は上演で見えていものは真に過程だけなのだとも思ったりするのですが、そうと語るにはあまりに根拠がないわけです。だからこそ、少しでも多くのことが残せるとよい。そこにある様々なものを。儚くはない何らかの形で。演劇はナマモノ……と言ったりするけれど、そうではない、と私は思う。ナマモノではないモノ……それもまた……演劇っ……! そういうことだと仮にしよう。「モノ」と「ナマモノ」を同時に考える必要がある。「記録」という作業においてそれは「身体」と「文体」を同時に考える、ということだと思っています。そこまではイメージを持てているのだけど、ここから先のことは全く分かっていなくて、何を書くことになるのか分かりません。困っています。囧。