円盤に乗る派 かっこいいバージョン『おはようクラブ』
2020年1月11日(土)〜13日(月祝)
会場:吉祥寺シアター
公演詳細:https://noruha.net/next

共同演出の稽古の様子を記録します。記録者は、自身も演劇ユニット・亜人間都市で制作を行う劇作家・演出家の黒木洋平さんです。独立した視点で創作に立ち会いながら、その間に働いた思考や問題意識にも踏み込みつつ、演劇が立ち上がる様子を記録として残していきます。不定期更新。
No.0
これは昔だけど一度だけ、演劇作品の記録に失敗したことがあります。というのも、とある演劇祭に参加したときのこと。私はなぜか運営側が記録の手配をしてくれるものと思い込んでいて、自分で記録の準備を全くしていませんでした。で、劇場入りした後に撮影の機会がないことを知り、慌てて用意したビデオカメラでなんとか最後の上演を撮影しようとしたけれど、時間も余裕もなくカメラの設定を何も確認しなかった結果、撮れていたのは台詞のギリギリ聞こえない雑音と、ただの真っ黒な映像。あれは悲しかった。そして申し訳なかった。作品制作に関わってくれた多くの人たちに。

残さなければ残らない。なんにも。全く。とりわけ演劇は。「そんなものは存在しなかった」と言われたらどうしよう。「でも、在りましたんです……」と言っても根拠がなければ信憑性もない、信じてもらえるだろうか、とても怖い。工夫や技術や努力のなんと儚い。それらは見えず、およそすぐに消えてしまう、まるで最初からなかったかのように、、、、、、、、、、、、、、、、。だからこそ映像でバッチリと残せたら良いのにね。そうだね、しかしそんなコストをかけられるほどの余裕やお金が、必ずしも全ての演劇にあるわけではなかった。そう、余裕はともかくお金は、最初から、、、、なかった、、、、。儚い以前の問題だ。それはとても悲しいことだ。

しかし、それでも演劇に希望を見出すのは、舞台上の体が、私たちの自由を強く証明してくれるからです。体は、表現している。本人が思うよりもはるかに強く。口にする言葉が人の言葉であっても、決められた振り付けの中にあっても、体のぎこちなさに、あるいは柔らかさに、他人とは異なる肘の角度に、足踏むリズムに、違和感もしくは親和性がとっくのとうに示されている。時間と距離が、時代と歴史が、過去と未来が、そこには如実に現れている。それは抑圧に抗う唯一の方法だ。なぜなら表現は、つねにすでに、表現されている。抑圧の挟む余地などそこには存在しない。

だからこそ、失われてしまうことこそが最も怖い。なかったことにされるならなおさら。例えば演劇はその制作過程が見えにくい。上演を見て素晴らしい作品であるとして、その背後には何があるだろう、とびきり素敵で理想的な関係性がそこにあるのならば知りたいだろう。また逆に、そこに大変なパワハラがあったのだとしたら……いや、パワハラなんて存在しなかったよ、ね、そうだよね、君? ハ、ハイ……。プルプル、俺は震えている。だが、なんとか書かねば。戦うための力が必要だ。神よ、私に幾ばくかの勇気と、、、、、、、、幾ばくかの、、、、、二百万円を、、、、、授けたまえ、、、、、アーメン(amen)、、、、、、、

どちらにせよ、背後にあるものは表からは見えません。いやむしろ、本当は上演で見えていものは真に過程だけなのだとも思ったりするのですが、そうと語るにはあまりに根拠がないわけです。だからこそ、少しでも多くのことが残せるとよい。そこにある様々なものを。儚くはない何らかの形で。演劇はナマモノ……と言ったりするけれど、そうではない、と私は思う。ナマモノではないモノ……それもまた……演劇っ……! そういうことだと仮にしよう。「モノ」と「ナマモノ」を同時に考える必要がある。「記録」という作業においてそれは「身体」と「文体」を同時に考える、ということだと思っています。そこまではイメージを持てているのだけど、ここから先のことは全く分かっていなくて、何を書くことになるのか分かりません。困っています。囧。